「自分との対話」について
一人になりたい。
そう思って、慣れない新幹線と特急列車に乗って旅行に来た。
家にいても一人の時間は持てるれど、つい寝過ごしてしまったり、食事の時間やお風呂の順番にモヤっとしたり。
家族と住んでいるが故に仕方がないことであっても、そういう小さなことが気になり、いろんなことを後回しにする言い訳に使ってしまう。(よくない)
だから、物理的に一人になれる「一人旅」という方法を選んでみた。
旅行経験自体少なくて、最初は一人旅なんて…と引いていたのに、意外にもこれが快適で驚いている。
来る前は宿に籠って読書かな~、なんて独り言と一緒に詰め込まれた本はほぼ開かれず、初日から毎日1万歩以上歩く姿は完全に観光客。
早起きして1時間散歩してみたり、宿の人やお土産屋さんの人と話し込んでみたり。
旅の恥は搔き捨てと思えばなんでもできそうな気がして、実際、いつもの私とはちょっと違う私で過ごしている。恐るべし、一人旅。
そうして、その間にいろいろ考える。
同じ道を何度も歩きながら(方向音痴)、道に迷いながら(方向音痴)、頭に浮かんだ物事について気の済むまで考える。
例えば、和風の住宅について。
今いる場所は古い町並みを残していて、当然、マンションなんてない。
あるのは平屋や二階建ての、引き戸に曇りガラス、木や畳の匂いがしてきそうな家ばかり。
そういうのを見て「いいなあ、素敵だなあ」と思う。
でも、住みたいとは思わない。
私が住みたいのはタワマンやデザイナーズハウスで、都会でオシャレな生活をするのが理想。
それならばなぜ和風の住宅を「いい」と思ったのか?
全然、住みたいとは思わないのに?
え、なんで?それってなんか無責任じゃない???
(私の頭の中ではこうなるわけ。めんどくさいでしょ。)※
でもこれ、勘違いというか、私の頭の中がバグっているだけなんだよね。
和風住宅から連想される生活が今の自分の希望には合わないだけで、建築物として美しく趣があるというのはそれだけで十分、「いいなあ」という感情に繋がり得る。
感性で受け取ったものを最後までどうにかしようとしなくていい。
人生において重要ではないことなら、価値判断から善悪や優劣をつける必要はなく、純粋に楽しめばいい。
いいと思う物事に対して責任を感じる必要はない、ということに思い至った。
では、なぜバグが起こったのか?
恐らく、「いい」という言葉の表面的なところしか受け止めていなかったから。
言葉によるすれ違いは上司と話をしていても、あった。
・私の脳みそは言葉の表面的な意味だけを捉えてバグることがあり、相手とのすれ違いの原因になりかねない
・感性を使って楽しんだことに最後まで責任を感じる必要はない
・白黒をつけるだけが正解ではない
この3つに気付けただけでも十分に意義のある考え事であったと言いたい。
和風住宅とタワマンについて~という一見無駄にも思える話題から、自分の思考の癖に触れることができた。
実際、※以降はこれを書きながら気付いた。
こういうことは時間があるからできることなのか。
(いや、そもそも時間は作るもので~と、なるわけ。本当に面倒。)
まあ、時間があってもなくてもできる範囲ですればいい。
なきゃないなりに、捻りだすことだってできるだろう。
こういう作業を「自分との対話」と呼んでいる。最近の私のキーワード。
これは、よくお世話になっている人との会話の中で得たのだけれど、つまるところ、私は、私自身のことをよくわかっていないということ。
私を知るための方法としては、
・人に聞く
・対象を決めて比較する
・客観的に観察する
などがすぐに思いつくだろうか。
じゃあこれ、実際にどこまでできて、どこまで自分に反映できるのかと言ったら、今の私では大した成果は得られないと思う。他人事のように受け流してしまいそう。
それを解決するのが、「自分との対話」になる。
小さなことでもなんでもいいから自分はなぜそう思うのか、自分にどんどん質問していき価値観や考え方の根本を探っていく。
時間はかかるが、これを積み重ねていくのが確実なんじゃないかと思う。
遠回りが一番の近道的なことも聞くしね。
時間のある今は積極的に「自分との対話」を楽しむことにする。
もちろん、この旅行が終わっても。